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「この世で最も尊いのは、深い深い愛情である」

この番組を見て、コソコソっとだけれども、涙が溢れてきて、終わるとすぐにシャワー室に逃亡したw
 
祖母はコタツで寝ていたのに、この番組の内容に気づいてか、起き上がってきて、真剣に見ていた。私としては祖母に見て欲しくなかった。おそらく、私のことを連想したのだろうと思う。
 
このことを語るためには、私自身のことを語らねばならぬ。私は15歳のときに家族と一切の連絡を絶った。もちろん、そのときには友達の多大なる助けを得ながら、そして、私は働いた(私は将来に渡って、友達に恩返しをしなければならないと思っている。それくらいに助けてもらった)。
 
祖母は私にずっと手を差し伸べていたけれども、私は断固拒否をした。無視しつづけた。仕方がなく祖母と二人でごはんを食べたが、「私は絶対に家には帰らぬし、祖母の援助も一切いらない」とハッキリと断った。それは、価値観や感性の違いとか、そういう問題では全くないのである。私はその問題について、他者の勘違いを起こしたくないし、誰の責任も追求しないと決めている。だから、私はこれについて語るつもりはない。
 
まぁただ、当時の私であれば「ばっちゃん」の元へ駆け込み、その温かさに包まれたいと思ったであろう。私は、ばっちゃんの温もりを求めて、家に駆け込む気持ちも、そして、ばっちゃんの気持ちもよく分かる。
 
なぜ、彼らが少年院に行くことになったのか? 家に帰らないのか? 私はだいたい予測がつくし、おそらく、ほとんど当たっているだろうと思う。
 
彼らは「家に居場所がない」から、家に帰らないのである。「愛」を求めて、ばっちゃんの元へ駆け込む。これは、間違いのない事実である。
 
子どもの反抗は「助けて」「抱きしめて」という心の叫びである。だから、子どもが反抗したら、悪いことをしたら「抱擁しなさい」と、私だったら親に言うだろう。
 
でも、親だって一人の人間であり、不完全な存在である。子どもというワガママで自分勝手な存在を、無条件に抱擁することが難しいこともある。だから、「ばっちゃん」が、そのような子どもを代わりに抱擁する。
 
 
少年院から出てきた17歳の子が、とても素直そうな目をしていた。彼らの気持ちがよく分からない人間なら言うだろう。「どうして、このような素直そうな人が少年院に?」いや、素直で、純粋で、いろいろと感じてしまうからこそーなのではないかと私は思う。
 
「どうして、僕は、このような家庭に生まれてしまったの?」と、青年はばっちゃんにオフレコで聞いたようである。
 
「生まれた家庭環境は変えられないけれども、自分の人生は、自分の手で変えられるよ」とばっちゃんは青年に答えたようである。これは、疑いもない真実である。
 
この青年は、少年院を出てすぐにばっちゃんに電話をした。そして、自分の身なりを整え、時間と金をかけて、ばっちゃんに会いに行く。ばっちゃんの家に入ると、自分の靴をきちんと並べる。お土産をばっちゃんに渡す。ご飯は、お米一粒のこさずに食べる。
 
これは、礼儀なんぞという儀式的で表面的なものではないと、私は断言したい気持ちである。彼の行為のすべては、「ばっちゃん」への愛情、ばっちゃんがくれた愛情への深い感謝の気持ち、そして、自分を助けてくれるばっちゃんへの敬意の気持ちが、青年の行為に現れているのである。
 
「切っても切れない関係。」
自分が、また悪の道に行ってしまわないか懸念し、友達も持たない選択をすべきかどうか迷っている青年にとって、絶対に切りたくないのがばっちゃんとの関係であった。
 
 
今度は、別の少女がばっちゃんの元へやってきた。
 
少女は、家族へ暴力をふるったという。でも、暴力をふるう人間とは思えぬような純粋そうな目をしていた。
 
「これは、ばっちゃんの前だから(素直で純粋な目をしている)だね」と私が言うと、祖母が強く肯定した。
 
おそらく、家族から愛情をもらえなかったのだろう。だから、その反動として、親へのSOSとして、暴力をふるったのだろうと、私は推測した。
 
「親は自分を生むことだけして、あとは何もしなかった」と、少女が言い、私の予測がほとんど当たっている可能性を示唆した。(だからといって、これらの状況を私の少女時代に重ね合わせることはやめていただきたいと思う)
 
「でも、私は自分のことを不幸だとは思わないんだ」と真っ直ぐな目をした少女が言った。
「子どもができたら、ベビードールのお洋服を着せてあげたいな。結婚する相手がいたらだけどね(笑)」
「あんた、ずいぶんと普通の夢だねぇ」というようなことをばっちゃんが言う。
そう。彼女らにとっては、愛情をもらえたり、愛情を与えることが幸せ。
 
 
私の目には、みんな「吸い寄せられるように」ばっちゃんの元に集まっているように見えた。それは、ばっちゃんが「深い愛情」を彼らに惜しみなく与えており、彼ら一人一人と真剣に向き合っているからである。
 
「どうしてそこまでするの?」と何度も訊かれたようである。「質問者には分からんだろ」というのが、私の答えである。だって、彼らが心の中で泣いているのを分かっているから、その目を覗きこむのである。「なぜ、心から悲鳴をあげている人間を見捨てるのか?」と私は言い返したい。
 
では、私はばっちゃんのような人間を目指すのか? と問われると、それは分からない。本格的にする可能性は低いだろうと思う。ただ、この問題の解決に関して働きかける可能性は高い。
 
「世の中で、辛い思いをする人を一人でも減らしたい」というのが、私の人生における目標である。しかしながら、果たして、人の苦悩を減らすことが、人間にとって、そして社会全体にとっていいのか、という疑問があることについては言及しておかなければならない。
 
私は、この目標を達成するために、社会のシステム方面からアプローチするために、学問に従事することにした。だから、いちばん情勢がひどかった中東問題を自分の専門分野としようかと考えた。
 
しかしながら、人間には「才能」というものがある。つまり得手不得手というものがある。私は、この問題を解決する適した人材ではないという判断をした。国連職員になるにしても、もとより競争が激しい世界であるので、自分より有能な人物がやる方がよっぽど社会のためであると思った。
 
それに、社会貢献というのは、助ける人数を競うものでもない。自分ができることをやることが、いちばん効率がいいように思う。
 
なにも、社会システムを変えなくとも、目の前のことに取り組むだけで、社会貢献に成りうる。「子供に愛情を与えなさい。子供が反抗したら、抱擁しなさい」と、これが正しいかどうかは分からないけれども、私がそう言うことにより、親が自らの日々の行動を考え直し、子をその腕で抱擁しようと努力するのであれば、それは、私が政治家として、子供を保護する法律を作るよりも効果がある・・・ということだって考えうる。
 
だから、私は、自分の出来ることを精一杯やるしかないのである。
 
 
そして、自分の性質を眺めてみると、とても1つの問題に取り組むような人間ではないことが分かる。まぁ、とにかく、どんな問題でも私は考えてしまう。
 
手を出す範囲が、広すぎる。
ばっちゃんのように、子供の心を抱擁するような人物が必要であることも分かってはいるが、私は、この問題だけではなく、教育問題、紛争問題、貧困問題、経済問題、環境問題、少子高齢化問題、医療問題・・・・・・もう、なんでもかんでも考えるし、私はそれに携わっている人々に接触したがる。ここまで手を広げて関心を持っていれば、とてもじゃないけれども、行動して成果を出すまでの時間を確保するのは困難である。空いた時間にNPOなどを立ち上げてしまえば、逆にきちんと成果を出せるだけの努力ができるだけの時間と労力を確保できず、「害」にしかならぬことを、私はやはりよく分かっている。
 
つまり、中途半端に、「ばっちゃん」のマネをすれば、余計に子供たちを傷つける。
 
だから、私は、現在のところ、ボランティアの参加だったり、文章を通じて、社会に潜む問題について指摘し、改善の可能性を示唆するという行動を選択するのである。