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家庭内における違和感。

他の学生を見ていると、実家に帰ることを喜ぶ人がいる。喜ばなくても帰る。これはつまり、家族との間に強い違和感がないということだろうかと思う。

もし強い違和感があれば、私のように長期間、家に帰らないだろうかと思う。そもそも、「帰る」という表現自体に違和感がある。

だって、ここは私の居場所ではないのだから。

「教育」というのは、ある意味で洗脳である。何が正しいか、正しくないのかを、多くの子どもは保護者の言動で判断をするからだ。

親の価値観を踏襲することは、ある意味において親の生き方をすることではなかろうかと思うことがある。少なくとも、私は10代のときにそう思った。家族ではあるので、私は家族を否定したくはない。だから、私は家族の価値観を一時期取り入れることにした。一部において取り入れた。

そして、家族は私に様々な要求をした。つまり、人格的な要求である。家族の中の権力者が気に入るように振る舞おうと私はした。

そこで、私は下記のような仮定を出した。
「教育というのは洗脳的側面があり、一人の人間を型に当てはめたり、個々人の価値観や感性の多様性を否定する可能性がある。」と。

「子どもと大人の境界」についての記述を読んだ。家計を親に依存しているうちは、「行動を制限され、子供扱いされることもある。」とある。

行動を制限されるということは、親の価値観に染まる可能性を示唆する。もちろん、それを拒否することもできるし、対立して議論することも可能であるという反論をされそうだが、この議論を親が受け入れるか否かの決定権も、だいたいにおいては親が持っているような気がする。

それに、家庭の中にはそれぞれ習慣というものがある。

ある人は「茶碗をもっと丁寧にゆすげ」と言えば、違う人は「水を使いすぎるな」と要求をする。

この程度の習慣の違いであればいいが、このような「暗黙の決まりごと」というのが各家庭にある。そして、多くの人間は、自分の家庭のことしか当然知らないために、この違いがあるということに気づくきっかけというものを持たない。

つまり、茶碗をよくゆすぐように躾けられた人間は、それが当然のことと思い込み、それをしない人間を見たら違和感を感じるのである。

私は、15歳で家を失ったこともあり、多くの家庭および個人にお世話になった。そして、経験した職業も多種多様で、多くの会社を見てきている。そのために、文化や習慣というのが国・地域単位ではなく、もっと小さな単位(家庭や個人)により異なるということを、身をもって知っている。

ついでだから言っておくと、この解決策というのは自分の心がけや行動次第である。つまり、相手に合わせる柔軟性を持つのが一番いい。相手のことをよく観察し、相手が要求していることを洞察し、相手に合わせて自分の行動を変えていくという手法を取るということである。

自分が何を言いたいのか分からなくなった。要約すると、一番目は、家族との間の違和感で、それは世界観の違いであった。二番目は、保護者に行動を制限される以上、基本的には親の持つ世界観を引き継ぐことになるということだ。

もちろん、私は家族の持つ価値観を否定はしないし、このような世界観があることも許容している。ある程度は取り入れているし、学ぶことも非常に多い。しかしながら、それらすべてを自分の血肉として取り入れるかということは別の話である。何故かと言うと、私は彼らとはまったく違う価値観や世界観を取り入れて築くという決断をしたからである。

すでに15歳のころから準備を重ねていたけれども、師が登場したことにより、20歳でいよいよ本格的に家族とは距離を置くことを決意した。この時点ですでに今後私たちの間に不理解の壁が築かれるであろうことは予測していた。家族は私のことがますます分からなくなったようである。もちろん、理解しようとは努力してくれた。でも、分からないものは分からないのである。私のことがよく分からないことを分かりながら、私に接そうとした。でも、根本的に分からないので、ギクシャクすることがある。このギクシャクをなくすために、どちらかが我慢をしたり、自分を取り繕ったりという作業が必要なのである。これは私だけではなく、家族の中の権力者がそうであろうかと思う。

人生には忍耐、我慢、自分を社会に適応させる努力というのが必要である。そうやって社会の一員としてやっていく。

それは、家庭内でも同じである。だから、私が家族と離れることを努力の放棄と呼ぶ人もいるかもしれない。しかしながら、先に述べたように、家族の世界観に適合することは、家族のような生き方をするということであり、人生を通じてこれを受け入れる覚悟をせよということである。私がどのような決断を下したかは、もうお分かりであろう。

しかし、強く主張しなくてはならないのは、相手の価値観を否定してはならないということである。まったく違う世界だから付き合わないということは、私は徹底的に避けたい。違うからこそ学ぶことが、絶対にある。相手のことを理解しようと努力し、そして、分からなくても分からないなりに相手を尊重しながら関係を築いていきたい。