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先生のまなざし。

「本日、小テストがあるのは分かっておりますが、今回お休みをいただくことを許して下さい。どうしても私は勉強と向き合うことができません。そして、私はそんな自分が嫌いです。自分で自分をコントロールしようとしましたが、それが難しいと感じたために、今回、小テストを受けないことを決めました。」
 
このようなことを先生へメールを入れたと思う。朝8時で、授業の1時間前であった。ギリギリまで悩んだ。自分が甘えているという思いもあったが、教科書と向き合っていても、言葉が目の前を通り過ぎてゆく。心が目の前の言葉を受けとろうとしない。
 
これでも先生への説明を省いた方だが、ここまで説明するのは、私の性格ゆえかもしれない。様々な感情があるが、やはり授業を休んだり、小テストを休むという行為が自分の中で大きな出来事であるからだろうか。
 
あるいは、誰かに助けを求めるという卑怯な考えだったのかもしれないし、説明責任を果たしたいと思ったのかもしれない。あるいは、この人にはどれだけ心を開いていいかということを察知していたのかもしれない。
 
男性の多くはあまり感情を出したがらないから、先生は恐らく知らないふりをしながら気遣うか、言葉数をすくなくして何かを言うかであろうと思った。
 
ただ、私は相手によって自分の心の内をどれだけさらすか、ということは、直感的に行っていると思う。FBの投稿はさほど気遣えないが、一対一で向き合うときには、相手の感受性や感性を直感的に察している。
 
この人には、この話は通じる。この人は、冷静だけれども感受性が強いだとか、言葉はキツくても、どれだけ優しいかだとかを何となく察知する。
 
私はこの先生と一対一で話したことはない。ただ、この人は、表面には一切出さないけれども、感受性が強く、感性が豊かだということは察知していた。もちろん、そのような態度を先生が授業中に出すわけではない。なぜ分かるのかというと、私と一番最初に目が合ったときの目の動きなど、目の表情である。
 
私が思うに、大学の教員となる人間は当然ながら知的水準が高い。そして、多くを察する。こちらが何かを発言したり行動すれば、見えない部分まで察する。もちろん、感情や感性に疎い人もいるけれども、分かる人は本当に深くまで洞察する。
 
もちろん、他者を完全に理解することは難しい。自分の洞察が間違っていたり、思わぬ反応をすることだって多々ある。でも、この先生には、ある程度は心を開いていいのではないかと思ったのである。ほんの少しであれば、自分の弱みをさらけ出してもいいのではないかと思った。
 
ただ、助けを求めてはいけないと思った。あくまでこれは私の問題であるから、最低限のことだけ言った。この小テストを別にやってもらおうとは考えておらず、0点を覚悟した上で決断したのである。
 
返事はこないだろうと思った。その方が楽だろうと思った。そして、私は自分が相当つらいということは、はっきりとは言わなかった。
 
ところが、返事がきた。ああ、相当心配をさせてしまったなと思った。
「君は、カウンセラーと話した方がいいのではないか。」
 
ああ、バレてしまっていると思った。私がどれだけ悩んでいるかを先生は気づいてくださっていたのである。ただ、これが話せないのである。カウンセラーや医師が悪いとは言わない。しかし、私は彼らに心を開けないこと、そして、仮に心を開いたとしても、理解されないだろうと思うのである。
 
恐らく、幾人かの先生はわかってくださるだろうと思う。深く洞察する方々であるから。
でも、私の悩み?ごときで時間を作って欲しくはない。
 
私は思う。
自己による「精神分析」を続けるしか手法はないのだと。
 
先生は、もうひと言付け加えている。「いつでも自分のところに相談にきなさい。」これは短い文章にこめられた、とても深い優しさである。私は、これに頼ってしまう自分を恐れている。私は、このメールを見たとき、次の授業に行く直前であったが、先生の深い優しさに涙がとまらなかった。
 
この人とは心の奥深くでわかりあえるかもしれない
そう一番最初に思った直感は、おそらく大きく外れてはいないのだろうと思う。
 
先生へ頼りすぎてはいけないという気持ちが混ざり合って、私は今、返信ができずにいる。ただ、心の奥深くを洞察しようとし、理解しようとする人がいるということは、私に光を与えてくれた。
 
先生が瞬時に見せたふかい眼差しが忘れられない。
そして、その眼差しを、私にも向けようとしてくださったことに、涙があふれてくるのである。