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言葉の恐ろしさ。

言葉というのは恐ろしいものであると思うことがある。
「欺瞞」があったり、言葉の裏にまったく別の「意図」があったりする。
 
学術的な出版物は、言葉の通りに受け取ればいいけれども、人と人との間に行われるコミュニケーションでは、そういう欺瞞や意図があったりする。
 
相手の意図を比較的正しく読み取れる人間が「読解力が高い」のだろうと思う。
 
いやはや、最近、この「読解力が低い」人間に非常に悩まされていた。私と先生とが信頼関係の上で行ったことを、第三者が、勘違いをして怒り、口出しをしてくる。しかも、学生の私にだけならいいけれども、先生にまで怒る。
 
最近思うのが、大学の先生は、とにかく何を言っても、他の人では勘違いをしそうなことでも、こちらの意図や考えを正確に理解してくれるから嬉しい気持ちになる(もちろん、私の英語力の低さゆえに伝わらないことはあるが、これは別問題)。しかも、言葉の裏の意味や、私の本音まで見抜いている。それどころか、目に見えないものや、他の人が気づかないようなことも恐らく見えているのだろうと思うことがある。それは、彼らの言葉の端々だったり、一瞬だけ見せる目の表情から、そう感じることがある。私の直感が正しいとはもちろん言わないけれども。
 
そういう深いとろこまで見抜く人たちに見つめられても、恥ずかしくない自分でありたい。
だから、私は、「自分の心の動き」をしっかりと把握した上で言葉を使おうと思っている。それは、自分を守ったり、自分を美しく見せようとしようとして、言葉で着飾らないためである。
もちろん、それでも自分の至らぬ部分を隠そうとする心理が働くこともあるけれども、できる限り技巧的にはならないようにしたいーそう願っている。