カメラマンの洞察。

華やかな空間の中に織りなす哀しみを抱えた人々について書いたら、このことを思い出した。
昨年の10月ごろに書いたものである。
 
10代のとき、私は暇つぶしにカメラマンの助手をしていた。
 
「お前、苦労しただろう?」
会って1度めか2度めに、カメラマンに言われた言葉である。同情しているような暗い口調でもない。ただ、サラッと、軽く言った。彼に私のことは一切話してはいない。
 
「いや」
私は、カメラマンのひとみをチラと観察した後に、目を逸らした。表情は変えなかった。私の目はとても冷たかっただろうと思う。
 
このときの私の心の動きについては記述するつもりはない。ただ、このカメラマンはよく物事を観察し、洞察しているなぁと思った。
 
その後、このカメラマンと違う男性と3人でいたときである。この男性は当時29歳であったと思う。
「君、暗いよね」そう、男性が言った。
 
カメラマンが私の代わりに応えた。
「お前みたいなアホに彼女の苦しみは一生理解できないよ」
 
黙っていろ!とでも言うかのように手で「やめろ」というふうな仕草をした。
 
おかげで、私は何も答えずに済んでホッとした。この男は物事を単純に考える人間であった。
 
一方で、このカメラマンは、明るい人で、鋭いことを度々言う人であった。
一度だけ涙を見せてしまったことがあったが、それ以外ではあまり話すことはなかったと思う。でも、私の人間性を信じてくれていた人であった。
 
なんとなく思い出した。世の中、いろいろな人がいる。
このカメラマンの洞察力はどこからきたのだろうか? と思うことがある。
 
 
私は、あることをきっかけに、どこかで人生を諦めきってしまった。そもそも、人生に期待をしていないから、ある程度の環境にも耐えられるのだろうと思うし、失うものなど何もない、自分の命だって惜しくないから挑戦できるのだろうと思う。
 
でも、諦めているから何もしないわけではないのは、私の行動力が示している。
 
自分の人生を諦めているからこそ、自分が生きることで負の遺産を残さぬように、生きている間にまともなことをしたいと思い、行動する。それが社会貢献へと突き動かす原動力であるのかなぁと思った。

金と幸福と愛。

金と幸福と愛。
 
私は、6つ年上の女性に連れられて、とても高級な店に連れて行かれた。
高級だということは、彼女たちの騒ぎようで分かったが、私はその高級な場所を楽しむだけの心の余裕がなかった。というか、酒を飲んで気が紛れただけであって、楽しいという感情は湧き上がってこなかった。私の目は、きっとこのキラキラと光るVIPルームの中で錆びきっていたと思う。
 
行きたくなかったが、高級だというので、とりあえず行くかと思ったのと、私が行くことを、この女性が喜ぶから行ったのである。
 
この女は、私のことが特別好きでもないとは思うが、嫌いというわけでもなかったと思う。一度、私が彼女の約束を破ったので、それから彼女の私に対する好感度は下がったが、それでも私に対してある種の優しさを見せた。特別美人というわけではないが、色気があり、男性に可愛がられるような女性であった。
 
金を払ったのは、この女性ではない。この女性のことを好きな金持ちである。
この男が、この女性を抱いたわけではないのは、私の観察からして、ほぼ間違いないだろう。ただ、この男は、彼女が好きだから金を落としてでも、この女の要求を飲むのである。この女性を落とせないことを分かりながら、この男は、この女性と少しでも時間を一緒にともにしたいがために、お金を使うのであった。
 
この男が、この女を見つめるときの目線は特別でありながら、その奥深くに、この女性を決して手に入れられないのだという哀しみが見えた。この哀しみが、いかにも金持ちじみた風貌のこの男を、人間らしく見せた。
 
この女は、楽しんでいるように一見みえたが、そこにどこか無理をしているというか、哀しみを私は見たような気がする。
 
同じマンションに住んでいたので、私と彼女は、その後、二人で同じ方向に帰っていった。
 
「バーに行く?」とその女性が私に聞いた。私は黙って頷いた。
「あなた、よく分からない子ね」と言った。それは、私が彼女の遊びについて行ったり行かなかったりするからであった。
 
このバーの店主は、彼女と親しいようで、彼女は自分の弱い部分をさらけ出している感じがした。私は彼女が抱えていることをよく知っていたので、彼女も、隣にいる私に構わず、自分の内情を吐き出す。
 
私は黙ってお酒を飲み続けた。
 
明るい空の下、ふたりで歩いて帰った。
高速道路にかかった橋をわたるとき、私たちはその橋から下を覗いた。
 
「死にたいと思うことがあるわ」と彼女が言った。
「私もですね。」と私は答えた。この点において、私たちは同じ気持ちを共有していた。
 
もしかすると、この共有する部分が、私たちを一時的にではあるが、繋いでいたのだろうかと思う。
でも、二人とも死ぬつもりはなかった。彼女は、自分の気持ちを、今度は私に吐き出す。
 
「罪悪感を感じる」と。
「罪悪感を感じる必要性なんてどこにもないじゃないですか」と私ははっきりと言ったが、この言葉は何の慰めにもならなかったようである。
 
私は、彼女の恋人を知っていた。そして、二人が見つめ合っているところをも知っている。「ああ、二人は愛し合っているんだな」と感じた。彼女の恋人は、彼女を愛するがゆえの哀しみを、その目に秘めていた。ふたりとも、同じような種類の哀しみを持っていたように思う。
 

ありがとう。

年が明けるようなので、祖母に電話。
「ありがとう。」って。
 
この前、大ゲンカしたから「ありがとう」と言う気分ではなかったけれども、やはり祖母にだけは言わないとと思う。何だかんだ言っても、私のことがよく分からないと言いながら、自分ができることをいつも心を尽くして私に愛をくれるから。素晴らしい祖母を持ったと自信を持って言える。
 
大ゲンカしたので、音沙汰がなくて心配していた様子であった。私が帰るまで、あと4〜5日もあるのに、天ぷらを大量に作ったとか言うからワロタ。まぁいつものごはんで美味しいから、そんなにしなくてもいいよって言ったけどw 郷土料理「鶏飯」さえ毎日食べられれば・・・w 生きていけるからw
 
母はオマケみたいな感じで「ありがとね〜」とテキトーな感じで・・・w
まぁ彼女なりに心配したりはしているようだけれども、まぁしかし、それを実行できないというか、むしろトラブルにしかならないので・・・w まぁ、彼女のお陰で私はたくましくなったのだから、それはそれでいっかな〜って言ってる。
 
 
一年前というのは、この御礼は今回よりも非常に重いものであった。
それは、私が内緒で大学を受験したことにより、非常に大変な思いをさせてしまったからだ。文句を言いながらも、最終的には認めざるを得ないというか、応援する道を選んだようだ。その後も不安を口にしながらも、一年経ち、どうにかこの現実を受け入れていったのではないかと思う。
 
だから、今回のサクッとしたありがとうとは違って、迷惑をかけてごめん、でも、どうしてもこの道しかなかった。その分がんばる、大変だったのに、認めて、応援してくれてありがとう、と言ったと思う(たぶん)。
 
本当はもっともっとがんばらないといけないんだけどね。今年は本当に手を抜いた。ごめんなさい。もちろん、課外活動にも手を出して、いろいろと手を出しすぎたから自爆した感じもあるけれど。でも、まだ足りない感じがある。
 
ただ、春学期に私が相当追い込んでいたときに「そんなにがんばるな」と言ってくれた祖母。トビタテに落ちたとき、奨学金に落ちたとき、ごめんねと言っても、大丈夫だよと言ってくれた。
 
ただ、2つ奨学金をいただけて、少し祖母を安心させられた? かどうかわからない。中東研究をすると言って応募して、それを成し遂げることができずに、道に迷った私に支援してくださっている財団の皆さまには本当に感謝しています。奨学生としてだけではなく、一人の人間として向き合ってきてくださいました。
 
奨学金は返済不要です。あなたが社会に貢献することが奨学金の返済です。そうおっしゃった。だから、今は道に迷っているけれども、目の前のことと一つ一つ向き合い、確実に自分の力にし、人生を通じて返していきたい。
 
 
また、多くの先生方、外部組織の皆さま、友達、学生からたくさんの知恵や救いをいただけた。
一人一人の顔が胸裏に浮かぶ。一人一人が私にしてくださったことを、自分の血とし肉とし、人生に活かす。それが、今の私にできることだろう。
 
人は一人では生きていけない。
自分は未熟で、何度も何度も失敗をする。
でも、だからこそ、人の知恵や救い、優しさが活きてくる。
 
 
見る人が見れば、私は相当苦しそうに見えたはずである。
しかしながら、私が幸福であることは間違いなかった。
 
それは、辛い時に、私を見守ってくださる人、心をかけてくださる人、そして手を差し伸べてくださる人がいたからである。
そのお陰で、私は這いつくばるようにしてでも、前へ進むことができた。
 
ああ、人はこうやって優しさをくださるのか。
そう経験することにより、自分以外の他者が辛い思いをしているときに、どうやって自分が手を差し伸べればいいのか、彼らは教えてくれた。
 
これを幸福と呼ばずになんと呼ぶのか。
 
 
さてと、3日の試験に向けてがんばろぉ〜っと(^o^)
明日から図書館が開くよ(^o^)

好きとか告白とか。

おもしろいことを思い出した。
小学生のときの話である。
 
私は転校し、まったく違う県に行った。
人見知りで、しかも同級生と遊ぶ習慣のなかった私は(私の遊び相手はいつも10歳以上離れた人ばかりであった)友達ができなかった。もう一人の転校生はすぐに友達ができて人気者なのに羨ましいなと思った。
 
それで、私は隣の男の子と仲良くしていた。気さくで話しやすかったからである。友達がいないので、その人と同じクラブに入った。異性として好きだとかそういう感情はなかった。
 
ところが、他の男の子に「お前は、あの子が好きなんだろう!」とからかわれてしまい、それから、その隣の男の子は良い人なのだけれども、私は素っ気なくするようになった。
 
 
私は他に好きな男の子がいた。
だけれども、今度はその男の子が私にこう言った。
 
「お前は、○○くん(また別の子)のことが好きなんだろう!」だから、私はこの人にお手紙を書いた。
 
「私が好きなのは、○○くんではなくって、あなたですよ」と。ところが、それ以来、その男の子から避けられるようになった。一度二人きりになったときに、お互いにものすごく照れている感じがした。
 
 
「お前は、相手をイジメっ子にするというか、不器用にさせる要素を持っているんじゃないか?」とクソジジイに言われたことがある。思い返してみれば、私はけっこうイジメられる。そして、告白される際は、非常に不器用な形を取ることが多い。
 
一度目は、学校の階段で「好きだ」と叫びながら、相手が走り去ってゆく。そして、少し進んだところでこちらをチラと一瞬だけ振り向く。頬が赤い。私は唖然とした。というか、それではこちらは反応のしようがなく、相手は何がしたかったのだろうかとワケが分からなくなった。そうして考えた結果、私はどう客観的に見ても美しくはないので、こういう現象が起こること事態があり得ない。そのために、「今のは幻」という結論に至った。私はこの人のことが好きであったが、それだけに「これはきっと幻であろう」と思い、そのまま何もなく、この人と話すことなく私は転校した。
 
二度目は、電話であった。家に電話がかかってきたので、電話を取ったら「好きだ!」とだけ言って電話を切られた。これではますます困惑するばかりで、相手の意図がまったく分からない。というか、相手が誰とも分からないので、こちらは反応のしようがない。イタズラ電話だろうと思った。それで、直後にまた電話が鳴ったので、「ばかやろーー!」と言って電話を切った。イタズラ電話だと思ったので、そう返したのである。これが本気の電話であったなら、この人はどう思ったのだろうか。まぁイヤな女と思って嫌いになったかもしれない。
 
 
まぁ子どもの好きなどと言うのは結構いい加減なものである。すぐに気持ちがコロコロと変わる。
それに、意外と相手に伝えていないことが多いのかもしれないと思った。10年以上経ってから「あのときは・・・」と言われたことがあって、驚いたことがある。その素振りさえ見せなかった人なので、この人は嘘をついているんじゃなかろうかと疑ったが、私に嘘をつく理由は一切見当たらないので、嘘ではないだろう。
 
かくいう私も自分の気持ちを隠すタイプで、前に進めない人間である。
「お前、両想いでも不器用過ぎるために結ばれない男女は世の中にゴマンといるんだぞ。お前のそういう性格は本当に良くない」とクソジジイに注意されたことがある。

錯誤行為。

フロイトのいう錯誤行為について考えている。
(これを考え終えたら勉強する。)
 
この錯誤行為について難しいのは、わざと錯誤行為をする場合である。この場合は、相手の意図が非常に読みづらく、相手もそれを狙っていることも多い。
 
何故この話になるかというと、元彼がわざと錯誤行為をしていたからである。わざとやっているというのは分かるときもあるが、あまりにその回数が多すぎて、すべてが嘘にしか見えなくなり、彼の言うことはほぼ全部デタラメだと思い、何一つ反応せずに、テキトーに聞き流していた時期もあるくらいである。
 
ちなみに、錯誤行為には目的があり、時と場合によるのだが、一つ目は、私を嫉妬させて愛情を確認するため、二つ目は、私の結婚の意図を確認するためである。
 
たとえば、嫉妬させるために、他の女の話をわざと出したり、名前を間違えたりする。しかし、私はその間になんら肉体関係さえもないことは何となく分かるわけである。それだけならいいけれども、彼が何故このような話をするか、その目的までも私は分かっている。だから、嫉妬する気持ちになるはずがなく、そのまま無視をすることになる。
 
次に、結婚の意図を確認するために、彼はあらゆる言葉を使って探ってきたし、あらゆる嘘も使ってきた。当時の私は、この話をすると非常に面倒なことになるのが分かっており、冷静に話せる環境が整っていなかったために、話そのものを反らし続けてきた。そのために、彼は「探る」という行為に出たのである。ところが、この場合も相手の嘘はすぐに分かるし、そこに相手が私の意図を探る目線さえも私は気づくために、何一つ反応をしないという結果に終わり、彼の目的は何一つ達せられずに終わることになる。
 
これは彼の反応の仕方や性格が分かっているから判断できる部分もあるが、まだそこまで知らない相手の場合は、その錯誤行為が意図的なのか否かの判断が非常に難しい。そして、頭が良ければ良いほど、錯誤行為をあたかも本物かのように見せることができる。
 
 
次に、これはあまりに明瞭な例である。
 
私の母は二番目の夫からもらった婚約指輪を失くした。そして、笑って言った。
 
「好きじゃないということね」と。
惜しくも何ともないようである。それならば売って換金した方が良かったのではないかと、今の私なら言うだろう。
 
彼女が言うまでもなく私は彼女のホンネに気づいていた。というか、彼女は夫のことを好きになったことなど一度もなかったと私は思っているが。再婚する際に、私はその傾向は何となく気づいてはいたが、私が彼女の結婚に口出す権利はないと思い、決断は母に委ねた。
 
「本当に結婚していいの?」と母は何度も何度もしつこく私に聞いてきた。あまりにしつこすぎて閉口した。「それは私が決めることではない」と。これは、私への遠慮と本人は言っているが、本人はこの男と結婚したくなかったのである。この本来の意図は、ほぼ間違いなく、私に止めてもらいたかったのである。そうすれば、自分の母に言い訳ができるからである。当時の私は10歳だったので、そこまでは洞察できなかった。今であれば、間違いなく止めるだろう。それは、彼女の本心に反しているからである。
 
これらを見ていて思うのは、「自分のホンネ」に気づく力が非常に重要だということである。自分のホンネに気づけば、比較的正しい判断ができると思う。
 
というのも、彼女は結婚したくもないのに結婚したから、相手の苦悩と寄り添えずに失敗したのである。
 
私も元彼と結婚しようかと思っていた時期があった。それは自分が当時置かれている苦悩から逃れるためであったので、この気持ちのまま結婚したら失敗するだろうなと気づいた。幸い、そこまで話が進まなかったから良かったと思っている。もし、そこまで話が進んでいたら、自分はきっと結婚して、少なくとも今よりは幸せではなかっただろうと思う。

「怒られる訓練」と「嫌われる訓練」

「怒られる訓練」と「嫌われる訓練」
 
私はよく怒られる。しょっちゅう、しょっちゅう怒られる。
これは何故かと言うと、いちばんの理由は怒られても怒りで返さずに、受け入れることが多いからである(おそらく)。
 
相手が自分に対して「怒りを爆発させられる自分」でありたいと私は思っているから、このような態度を取る。
何故かと言うと、怒りの中に「ホンネ」があり、相手のホンネから「自分自身の改善点」が見えてくるからである。
 
正直なところ、自分の欠点を自分自身で見つけるのには限度がある。だから、他者からの意見を聞かなければならない。しかし、人は他人との人間関係を維持するために、その欠点を指摘せずに、表面上はキレイに取り繕ったまま関係を続けようとする生きものである。それが処世術である。だから、他者から自分の欠点を指摘されるというのは貴重なことである。
 
だから、相手が私に対して何でも言えるような関係を作ろうと心がけている。そして、その中に感情的なものも交わってくれば、大成功だと思っている。
 
まぁたまに自分のプライドを守るためにこちらを貶してくる人間もいるので、そのときは相手に対して、自分が冷静に相手の人間性を把握していることをわざと見せつけて、相手の態度をやわらげるという手法を取ることもあるが。
 
 
ところで、女性の中には理不尽なことで怒ってくることがある。ネチネチとストレスを爆発させるように怒ってくることがある。そして、それはこちらに非があるときも、非がないときもある。そして、必要以上に怒りを発散させてくることもある。
 
これは多少めんどうだと思うこともあるが、私はよっぽど体力が落ちていない限りは、話半分にテキトーに聞き流している。そして、反省すべき点は反省して、素直に謝罪する。
 
まぁそれで、あまりに相手がいつもよりも怒鳴り散らしてくるので、私はたいへん驚いたことがある。女性の中には、生理前にイライラする人がいるから、生理前じゃないかとさえ思った。まぁ怒りたいこともあるだろうと思い、言いたい放題言わせたが、私は少々落ち込んでしまった。それで、シュンとしていたら、相手が最後の方で私に同情しだし、非常に優しくなった。
 
こういう現象を見ていると、相手を好きなだけ怒らせるというのは、いちばんいいやり方のように思うことがある。怒りたいだけ怒れば、人の気持ちも落ち着いてくる。そして、怒ったあとには冷静になることも多く、「あ、言いすぎてしまった」と中には思う人もいる。それで、最初の私に対する怒りが、別の感情に移り変わってゆくのである。
 
 
ちなみに、なぜ私が怒りへの耐性が強いかと言うと、訓練をしたからである。「怒られる訓練」と「嫌われる訓練」をたくさん積んだ。そうすれば、だいたいのことは受け入れることができるようになる。
 
いちばん効いた訓練は、カメラマンの助手である。あれは相当怒鳴られるし、扱いも手荒い。それは、やはり助手という下っ端で、身分が低いことや、瞬間を映す仕事であるがゆえに、その瞬間を逃さないために、助手を無理やりにでも動かす場面が多々あるからである。
 
しかも、私はこの分野における才能が一切なかったので、多くのカメラマンから嫌われた。恥ずかしくなるようなことを言われたこともあるし、人間失格と言わんばかりのこともあった。中には感受性が強く、私の隠れた感受性を見出して気に入ったカメラマンもいたが、いかんせん仕事ができないのは事実であったので、カメラマンの中で権力のあった人に嫌われ、それが他に波及して、嫌われ者となった。
 
でも、あれはとてもいい経験である。おかげで他人に嫌われることを恐れなくなったからである。どうせ私を嫌う人間は嫌うことに変わりはない。一方で、私のなかに何かを見出してくれる人もいる。だから、恐れる必要はないと思うようになった。
 
また、仕事ができない人間の気持ちも分かるようになったので、仕事ができない人間をみたら、当時の自分を思い出すから、手を差し出して、いっしょに仕事をしていこう、という気持ちを持てるようにもなった。

男前恐怖症。

私は男前が苦手である。
これは、相手のせいではない。私がブサイクだということを強く自覚させられるのが嫌なだけである。並ぶと、自分がブサイクだと言われているような気持ちになる。それでも、最近はしょうがないと思えるようにもなっただけ大人である。
 
男前というのは意外とたくさんいるけれども、自分で自分のことを「男前だ」と思い自惚れている人はめったにないということに気がついた。少なくとも、私の周りはそうである。いたとしても、10代〜20代前半である。というのも、社会に出ると、男前かどうかだけでは浮かれていられなくなるから、容姿だけを武器にはできないからなのか?
 
非常に多くの人が男前だと言う先生がいる。でも、私は何故ここまで男前だと言われるのかがよく分からない。先生には悪いが、本当によく分からない。そこで、私は先生の顔立ちを観察することにした。なぜここまで男前だと言われるのか? その問いに答えるために顔立ちをじっくりと観察した。ところが、この先生はトップレベルのツンデレである。いや、デレない。ひたすらツンツンとしている。それどころか、私に対しては爆弾を投げつけてくる。爆弾というのは、甚だ厳しい言葉ー過剰過ぎるほどに厳しい言葉を、ものすごい勢いで浴びせてくるということである。爆弾を投げつけられることは、私の場合はよくあるので、それはいいのだけれども、この先生はその中でもトップ1・2に入る。まぁ爆弾と言っても、優しさを爆弾というものに包んでいるだけであるが。
 
それで、この人が男前かどうかの結論であるが、男前かどうかの判断がし兼ねるくらいにコワイという結論が出た。だって、何を言っても笑ってはくれないのである。ツンデレはよくいるが、ここまで笑わないツンデレは、ここ数年で二人しか知らない。いくらクセモノであっても、多少は笑う。
 
家にあった焼酎を片づけるためにあげたときだけ、この方はニコリと笑ったが(この笑顔は礼を尽くすという意味で笑ったのだろうと思う)、その笑顔があってもコワイという印象は拭えない。
 
私のことが嫌いではないから、配慮を爆弾で包んで投げてくるのだろうかとは思うが、ここまでになると嫌われているのだろうという疑いを100%拭うことは不可能に近い。1%以上は嫌われているだろうなと思ってしまう。
 
話がだいぶ逸れた。
私はこの人が男前だと言われているから、それについてどう思うかいつか聞きたいと思いながら、恐怖感が勝って何も聞けない。
 
だって、この先生が優しいと他人が言っていたと一言伝えるだけで怒るのである。
「あのさ、何か勘違いしてない? 俺、厳しいんだけど」それを聞いて鳥肌が立った。
 
そのため、この人の人物像を元に想像で会話をしてみようと思う。
「先生は多くの人から男前だと言われていますが、どう思われますか?」
「は? 何言ってんの?」ああ、これ以上の会話は想像できない。
 
 
もう一人男前だと言われている人がいる。
これは男前ではあるなと客観的に見て思った。男前だから授業を取ったわけではなく、オムニバス形式の授業で必ずこの人が出てくるから仕方なく取る形となった。オムニバス形式なので、ひと月我慢すれば終わる。
 
ここで「ガマン」という言葉が出た理由は、この先生の授業が甚だ嫌いなのである。人はとてもいい。素直な感じで話しやすい。そうは言っても、彼の授業が死ぬほど嫌いなのである。彼の出すテストは、またなおさら嫌いである。何故かと言うと、とにかく動画や映画を見せるのが大好きだからだ。数十分じゃなく、何時間も見せられる。授業をしたかと思えば、本の引用を大量に行う。それだけならいいが、本のタイトルと著者名をテストに出してくるから悪質である。
 
あそこまで男前だと言われるから、私も劣等感を抱いてしまうのではないかと不安に思ったが、その必要性は一切なかった。それどころか、この苦痛の何時間を耐え抜く方に懸命だったからである。
 
もちろん、彼の授業が嫌いなのは私の性質なだけであって、この人の授業が好きな人もいるだろう。でも、死んでもこの人の授業を4か月間受けるという選択は取らないだろうと思う。
 
 
逆に、とても男前とはほど遠い先生が人気者らしい。どう転んでも、どうお世辞を言っても男前だとは言えないのである。
 
ところが、とても美人な女性が「あの先生、かわいいの」とハートマークがつきそうな勢いで言う。しかも、話をそのまま聞くと、その先生は女性に人気で、クラスに女性がたくさんいるようである。アドバイザーの登録もできないくらいに人気なのである。
 
ただ、本人は女性を口説こうという性質でもないし、遊び人でもない。
 
この先生が非常に優秀で、授業もおもしろく、学生ともよく議論をする熱心な先生だということくらいは、授業を取ったことがない私でも感づいている。しかし、優秀だというだけでは説明がつかないと思う。
 
その美人女性に話を聞くと「話し方がかわいい」と言う。このかわいいと言うのは、色っぽいかわいいではない気がする。
 
ちなみに、私はこの先生の授業を取るつもりはない。なぜなら、課題量が多そうで厳しそうだからである。私は自分の性質を考えて、ああいう重い授業は正規学生としては取らないと決めた。理由は、健康のため、奨学金や就活などの人生プランのためである。私は親を一切頼れないので、ここまで考えて戦略的に動かなくてはならないからだ。