怒鳴り散らす人を冷静に眺める。
「下克上受験」が、大キライ!
「偏差値を70代に上げました(?)」という「下克上受験」というドラマを観ているけれども、とても違和感を感じる。
偏差値が学力を示すのは分かるのだけれども、それで人間がはかられている感じがする。同じ物差しで人間が見られている感じ。
本当は人には個性があるのに、それをあまり見ていないのが気になる。
人を笑わせるのが上手い人。
無口だけれども、さりげない優しさをくれる人もいれば、心に内なる情熱を秘めている人もいる。
照れた姿がかわいい人。
そういう、様々な個性を褒めている言葉を、私はあまり聞かない気がするのだけれど、気のせいかしら?
肌がつるつるしてきれい。
目が澄んでいてきれい。
まっすぐな目をしている。
相手の美しいところはたーっくさん出てくると私は思う。
「下克上受験」はねぇ・・・深キョンがかわいいから好きだけど、「偏差値」を物差しにしてしまう人が増えないかとか、劣等感を抱く人がいないかが心配だなぁ。
私はその人らしく美しく輝いて欲しい。
そう思うから、相手の美しいところを言葉にして相手に伝えたいと思っている。(照れて言えないこともあるけれど)。
ウザイ姉から妹へ。
「ウザい」
「お姉ちゃんには関係ない。口出すな」
怒られたら、妹が口にする言葉だ。
私としては、黙っておくことは簡単。というか、楽。でも、言うべきことは言わなければならない。
「何も言わなければ、あなたは一生成長しないということだよ?」
毅然とした態度で私は答える。妹は、もの凄い勢いで文句を言ってくるけれど、子どもが自分を守るために言うことなので、それくらいでは動じない。
「うるさい!黙れ!」と妹はブチ切れる。
「私がうるさいのではなく、あなたが聞く耳を持たないからでしょう」
私も反抗期があったし、特に家族に言われるのは嫌だから気持ちは分かる。まぁ、まだ彼女が子どもだということだ。
あの年齢でこうだというのは本当に子どもだと思うが、これは親のせいである。でも、親は変えられないので、私は親に詳細を指摘をするつもりはない。しかし、教育者としての自覚を持ってもらいたいと思ったため、「妹が人間的な成熟が見られないのは、両親のせいである」と母に言った。彼女の父親は教育に関与していないのでイチイチ伝えるつもりはない。
私は子どもでも一人の大人として扱おうと思ってはいるけれども、相手を子どもだとみなして扱う必要もある。
それはそうと、聞く耳を持たないということは本当に問題である。他者の意見に耳を傾け、それを取り入れてこそ、成長ができるからだ。自分の視点では絶対に見えないこと、気づかないこと、分からないことがある。
「うるさい!わかってる!」と怒鳴り返してきても、実はちゃんとこちらの話をしっかりと聞いていて、それを自分の行動に反映させる人もいる。
妹は、それができたり、できなかったり。ちゃんと反省することもある。私は、様々なやり方を試みる。妹に何も言わないこともあれば、ほのめかしをしたり、褒めたり、様々な言葉、態度、トーンを使って、そして相手の反応を見ながら、どの方法が相手に一番届くのかを模索する。また、相手に厳しく言えるだけ、自分がしっかりとしていないと相手はこちらの話を聞かないので、日々の自分の行動も大切である。
ただ、相手が攻撃してくると、こちらは対話ができなくなる。でも、大事なことはいくつか伝えておいた。
彼女の気持ちが落ち着いているとき、
人の話を聞きなさい。と言う代わりに、こう言った。
「お姉ちゃんにだと言いづらいこともあるだろうと思う。だから、自分が信頼できる、心を開けると思う人に相談して、アドバイスを貰うといいよ。どんなに長く生きても、人間は完全じゃない。自分の視点には限界がある。だから、他の人からアドバイスをもらうんだよ。」
これは、人の話を聞き、意見を取り入れるようにという意味合いを持つ。
「辛いことがあったり、ママと喧嘩したら、いつでもお姉ちゃんに言っておいで。いつでも貴女の味方だからね」
もちろん、私はずっとその覚悟を持っているし、妹のために大学入学を諦めてもいいと思っていたこともある(今は入学したので事情が違うが)。
だから、これは本心である。でも、これを言ったのは戦略的な意味合いがある。それは、私がそれまで妹に言った言葉を相手の心に届けるためである。安心感や信頼感を相手が感じていれば、こちらの言うことに重みが出るからだ。
妹は、目を閉じていて、何の反応もしなかった。眠たそうなフリをしていたが、恐らく少しくらいは話は聞いているだろうと思った。翌日、お姉ちゃんに甘えてきたので、ちょっとくらいは届いたかな?(笑)
話の意味が分かるのと、それを実行に移せるのとでは次元が違うので、妹が私の言葉をどう噛み砕いて、どこまで自分の人生に反映させるかは分からない。でも、私の言葉を受け取るのも拒否をするのも妹が選択すること。
別に成長するからいいというわけでもないしね。どうせ、社会に出たら揉まれて嫌な思いをしながら成長せざるを得ないのだからなんとかなるでしょう。
乳がん検査がこわい。
乳がん検査。
がんになってしまったら、お金がかかる。大学にも行けない。当然、奨学金も貰えない。
うーん、でも、初期だと薬物療法で入院しなくてもいい可能性もあるから(知らないけど)、働くことができるから、どうにかギリギリやっていけるかもしれない。家族には頼りたくない。
そういう考えがチラと思い浮かぶ。だから、ガン検査の前は怖かったりする。考えすぎかもしれない。でも、ガンになれば、こういう生活がやってくる。
でも、だからこそ行くんだ。病気は発見が早ければ早いほど治療がしやすく、医療費も安くて済む。そして、今は身体が動くので、働くことができる。ひとまず、ガンになっても一人で生きていくことはできるだろう。
仮にガンになっても、とりあえず働くことだけはできるだろう。
働けることは、希望だ。
◇
ガン検査の前には、いつもこのような気持ちをひと通り味わう。
でも、いつの間にか、このような不安は忘れている。だって、私は現実を生きなければならず、それで忙しいのだから。
一寸先は闇だよね。
だから、私はいつ死んでもいいという気持ちで生きている。
私がマレーシアに行くということで家族が心配をする。
「死ぬときは死ぬんだからさ」と言うと、妹が泣きそうな顔をする。
『ガンになったら、その事実を受け止めて、自分ができる対策を打ち続けることしかできない。』
何が起こっても最低限の生活は保障できるようにリスク・マネジメントをしながら、でも、問題が起こったときに考えるという諦めも持つ。
私が生きているのは、「今」である。
目の前に起こったことを直視して、今を生きる。
◇
乳がん検査はイタイと聞いていた。
子宮がん検診は、20歳のときに仕方なく受けたので、痛みは想定できる。それに、定期的に行っているので、仮にガンだとしてもそこまで酷くはないだろうという気持ちがある。
乳がん検査のレントゲンは、乳房を挟んで写真を撮る。これが、とても痛いと言う。今回の恐怖心は、ガンに対する恐怖心というよりは、この「未知の痛み」に対する恐怖であった。そのために、留学前まで先延ばしにしていたのである。
検査を受けなければ、ガンなのかもしれない恐怖、未知の痛みに対する恐怖の2つから目を背けることができる。知らないフリをすることができる。
「痛いですか?」恐る恐る、看護師さんに聞く。
「うーん、人によりますけれど、私は痛くないです。」
これを聞いて、チョットだけ安心した。痛くないかも、という可能性にかけたのである。
レントゲンを撮るにあたって、いろいろな指示が出た。立ち位置、身体の傾け方、手の位置。レントゲン技師さんに手間をかけないように、技師さんの言葉にしっかりと耳を傾け、技師さんの仕草をしっかりと真似る。仕事やボランティアをしていると分かるのだが、他者の指示通りにできないがために、時間をたくさん費やし、余計に事がめんどくさくなるということが起こるからだ。だから、一発で話を理解し、指示通りにするということは、他者と何かをするときに重要なスキルとなってくる。
「痛くないですか? 痛かったらほぐしてくださいね。」と技師さんが優しく声をかけてくださる。ほっと、心がほぐれる。
「看護師さんから、とても怯えていたと聞いていたので、不安かなと思って」と言う。私は感動した。患者の気持ちを汲み取り、それに配慮をする。そのために、院内でしっかりとコミュニケーションを取る。
院内で不安そうな表情をしている人を見るとき「この病院に来て良かったですね」という気持ちになった。もし、病気だったとしても、この病院なら貴女の心をほぐし、寄り添ってくれますよ、と。
「痛くないですよ」と、私は答えた。技師さんに自分の感触をちゃんと伝えた。実は、まったく痛くなかったのである。でも、次の触診とエコー検査の不安はあるので、怯えた表情ではあっただろうと思う。
「ありがとうございます。」
技師さんの優しさへの感謝の気持ちをたくさん込めた。
診察室の前で待っているとき、私は不安だったはずなのに、とても穏やかな気持ちであった。それは、技師さんが本当に素晴らしい、素敵な仕事をされている!と感動したからである。
自分が接客業をしていたときのことを思い出した。本当につまらなかった。これは私の心も持ちようが悪いのだが、機械が苦手なオジサン・オバサンに機械の操作を教えることは結構たいへんであった。理解力も乏しいし、サクッとできない。私は笑顔を失っていた。
そんな自分と技師さんを照らし合わせていたのである。よく知りもしない人に穏やかに、笑顔に接し続けることは難しい。そして、他者に優しさを与え続けることも難しい。ましてや、様々な性格の人がいて、不安を抱いている人も多い病院で、他者を思いやり続けるということは、それなりに人間として懐が深くないとできないものである。
すごいなぁ・・・。
そう考えているだけで、結構長かった待ち時間はあっという間に過ぎていった。検査の前なのに不安がないのは、看護師さんと技師さんのお陰である。
◇
触診とエコー検査を担当した方々も、優しい女医さんと看護師さんであった。
医師はエコー検査をしながら、画面を見る。私の目の前で。だから、相手のちょっとした目の表情、機械の動き(たとえば、同じところをグルグル見たり、また戻ったり)で、異変を感じることを私は分かっている。そして、不安なときほど、このようなことに敏感になる。
今回はただただ、痛くないかが怖かった。目をギュッとつむる。
エコー検査は、長かった。そして、ちょっとだけ痛かった。乳腺というのは、ホルモンの関係でちょっと痛むことがあるらしい。乳腺を抑えている感じなので、痛かったようである。大した痛みではないのだけれど、たいそう痛いような心持ちがする。
「うーーん」と目をギュッとして唸っていると、看護師さんがさすってくださり、心が落ち着いてくる。本当に素敵な方々だ・・・。
「くすぐったいですか?」
首を大きく横に振る。今回はちょっと痛い。前回はくすぐったかった。
前回はお姉さんにコワイ目で「動かないで」と怒られたものだった。でも、私の反応は常に大袈裟で、医師たちが苛立つことはよくあるので、いつもじっとして、反省している。
「ちょっと長いですけれど、しっかりと診ますからね」と看護師さんが私を撫でながらおっしゃる。目的は検査だ。がんばろう、と思う。逃げてはダメ。ここでしっかりと検査をしないと、と思う。
「はい、よろしくお願いします。」と答えた。
「しこりはないですからね」ということであった。つまり、異常なし。
ああ、生きている、と思った。
生きている時間を大切にしようと思った。
溢れ出る愛情表現をしたい日本人は、ここにいる。
「日本社会における女性の立場は、極めて特殊である。一般に、料理や掃除などの家事全般は、女性がやるものと考えられている。子育ても同様で、父親が平日に子供と過ごす時間は、平均で1日28分という統計もある。」
お父さん達は働きすぎでは?
これは働き方改革待ったなしですな。
「日本の女性は結婚を決める際、愛よりも、相手の稼ぎや貯蓄額、出世の見込みを重視するといいます。だからでしょう、ロシアの女性と結婚した日本人男性は口々に言いますよ。ロシアの女性はもっぱら内面重視で、打算で結婚したりしないのがいいってね」
自分が働けば問題なくね?
「日本では伝統的に夫婦間の愛情表現が冷ややかであり、ロシア人妻たちはそのことに苦しむことになる。夫が妻に甘い言葉を囁いたり、花をプレゼントしたりする習慣がないのだ。家に花は飾ってあっても、それはインテリアの一部でしかない。」
へぇ。
じゃあ、私は日本人と違うな。
「マリーナというロシア女性と結婚した日本人男性が、妻の機嫌を取りたいから、とにかく女性が喜ぶセリフを一語一句違わずに教えてくれと頼み込んできました。あとになってマリーナが暴露したのですが、彼は部屋にこもってそのセリフを丸暗記したのだそうです。ところが、いざ妻に向かって言おうとするとしどろもどろになってしまい、カンニングペーパーを取り出したというじゃありませんか」
愛の言葉は心から溢れてくる。
「あれほど優しさ溢れる暖かい愛情表現は、日本人女性には期待できないと言う。」
偏見はやめてくれ。
私はこれでも日本人。
「日本では、子供の世界のヒエラルキーは、社会のヒエラルキーとはっきりと連動している。」
こわい。
個性を大切にして欲しい。
「国際結婚家庭の子供で、学校について不満を言う子が一人もいないことには驚きました。日本では、教育は神聖なもので、子供から非難するなんてとんでもないと思われているのでしょうか」
教育に完璧なものはないのだから、子どもの意見を取り入れることは必要だろう。でも、これはモンスターペアレンツの問題、教師が忙しすぎる問題などがあるので、もっと複雑な議論が必要。
教育とは、相手を愛で包みこむこと。
教育とは。
自分を教育者に見せないように心がけている。
それは、相手が私と対等に口をきくことによって、相手の本心をさらけ出させるためである。
いい子を演じさせるのが教育ではない。
たとえば、思いやりであれば、思いやりのあるフリをさせるのではなく、思いやりの心が生まれるように、人の気持ちを感じることのできる子どもに育てる。
価値観は多様である。
自分の価値観を押しつけることは、子どもの非寛容性に繋がる恐れがある。相手の個性を潰す恐れがある。
だから、自分が生きるために必要だと思う信念をきちんと精査した上で、選び抜いて、それを相手に伝える。
大事と自分が信じる思想を伝える場合も、それ以外の考えもあるかもしれないという含みを持たせること。
教育とは、対話である。
だから、相手が耳を傾けないと思ったときには、話を止める。
でも、言わなければならないこと、相手に悟らせなければならないことは、きっかけや雰囲気を作り、相手の心に届くような環境を作った上で伝えること。全部伝わらなくてもいい。
そのときには、相手の気持ちを心で感じながら、言葉や態度を選ぶこと。言葉の表現およびトーンで、相手の聞く態度は変わる。
そして、相手の表情の変化をしっかりと読み取ること。相手が嫌な顔をしても、感情的にならず、怒鳴られても毅然とした態度をすること。そして、相手のそのような態度がやわらぐ言葉・トーン・態度を探りながら対話をすること。
教育とは、自己の鍛錬の場である。自己をコントロールする能力が試される。自己の感情をコントロールすることが求められるからだ。
私の教育の最終目的地。
相手の美しいところを最大限に引き出すこと。
相手に自分らしく輝いてもらうこと。
「なぜ男と女が惹かれあうのか考えたことある?」
「なぜ男と女が惹かれあうのか考えたことある?」
「たぶん、空気で惹かれあうんだとおもう。性格とか容姿の前に、まず空気があるの。その人が周りに放っている空気。そういう動物的なものをわたしは信じてる」
このように惹かれ合う者同士の繋がりを「本能的」だと筆者は呼ぶ。
日本人の離婚率は欧州よりも低いと筆者は言う。そして、それは欧州人がより「本能的」だからではないかと言う。(まぁこれは離婚の原因を統計的に見ていないので鵜呑みにはできない。筆者の感触だろうかと思うが、そういう感触が事実を現すこともあるので、参考にはできるだろう)
以下、記事の続きである。
「時は過ぎ、そのまま破局するかと思いきや、最後の場面で、何不自由ない暮らしと優しい夫を捨て、パリまで若者を追いかけていく女。
現実の世界で、この究極の選択をする人はいるのだろうか──。肌感覚の話だが、日本人なら0.1%、いやもっと少ないかもしれない。
一方、ヨーロッパ人、とくにラテン系欧州人なら、10%程度の人がこの選択肢を取るのではないだろうか。」
私も日本人はこの選択を躊躇うのではなかろうかと思う。それは、離婚が非常にめんどくさいということ、子どものために自分がガマンすればいいという考えもあるけれども、「世間体」もかなりあるだろう。
日本人は理性で本能をコントロールするのが上手いと筆者は締めくくるけれども、果たしてそうだと言い切っていいのだろうか?
秩序が崩れる怖さが勝るのではないだろうか?